1206年 | 建永元年 | 鎌倉時代のはじめに久宝寺という寺があったことが確認できる。 |
1407年 | 応永十四年 | 室町時代前期には、久宝寺に道場(慈願寺)があったことが確認できる。 |
1458年 | 長禄二年 | 本願寺宗主蓮如が慈願寺法円に十字名号を修復し、これを与える。 |
1470年 | 文明二年 | 本願寺宗主蓮如が久宝寺で布教したと伝える。 このころ、蓮如が久宝寺に西証寺(のちの顕証寺)を建てる。 |
1532年 ~ 1535年 |
天文元年 ~ 天文四年 |
畿内各地で室町幕府と本願寺・一向一揆が戦う。 |
1545年 | 天文十四年 | 西証寺が再建される。これ以前、大津近松山顕証寺の蓮淳が西証寺住職となり、寺号を顕証寺と改められる。 |
1550年 | 天文十九年 | 蓮淳、久宝寺で亡くなる。 |
1570年 | 元亀元年 | 本願寺宗主顕如、織田信長を討つため挙兵する。 河内の真宗道場が悉く根来寺衆によって破却されるという。 |
1571年 | 元亀二年 | 河内国の平野部の村々が焼き討ちされるという。武家方、久宝寺地下道場に禁制を与える 同じころ、織田信長、近江国に入り、延暦寺を焼き討ちする。 |
1574年 | 天正二年 | 本願寺宗主顕如、再び織田信長を討つため挙兵する。河内の三好康長・遊佐信教がこれに応じる。 一向一揆方の萱振城が落ちる。 |
1580年 | 天正八年 | 本願寺宗主顕如と織田信長が和睦し、顕如は大坂石山本願寺を退場する。息子教如は徹底抗戦を主張し、大坂石山に籠城。 |
1581年 | 天正九年 | 安井清右衛門定次が織田信長から久宝寺屋敷地一色支配を認められる。 |
1594年 | 文禄三年 | このころ、久宝寺で太閤検地が行われる。 |
1606年 | 慶長十一年 | 久宝寺百姓森本七郎兵衛らが、安井氏の非法を訴える。 |
1608年 | 慶長十三年 | このころ、慈願寺、八尾に移る。 |
1612年 | 慶長十七年 | 片桐且元により久宝寺で検地が行われる。 |
1615年 | 慶長二十年 | 大坂夏の陣で久宝寺も戦場となる。 |
1638年 | 寛永十五年 | この年、松江重頼編の「毛吹草」が出版され、久宝寺木綿が紹介される。 |
1639年 | 寛永十六年 | 安井一族の間で久宝寺屋敷について相論が起こる。 |
1677年 | 延宝五年 | 久宝寺で検地が行われる。 |
1689年 | 元禄二年 | 安井氏と顕証寺で年貢のことで相論する。このころ「久宝寺屋敷惣絵図」(高田家蔵)が作られる。 |
1704年 | 宝永元年 | 大和川の付替え。 |
1707年 | 宝永四年 | 宝永大地震が起こる。市内の寺院も多大な被害を受ける。 |
1716年 | 享保元年 | 顕証寺が再建される。 |
1721年 | 享保六年 | 顕証寺新田が造られる。このころ、顕証寺、寺地を南側の出屋敷の一部まで広げる。 |
1723年 | 享保八年 | 「新検分間正絵図」が作られる。(木村家蔵) |
1755年 | 宝暦五年 | 木綿仲買仲間の久宝寺組・八尾組・山根き組が木綿取引について取決めをする。 |
1764年 | 宝暦十四年 | 久宝寺住民ら、安井一族から久宝寺屋敷地を買い取る。 |
1789年 ~ 1801年 |
寛政元年 ~ 享和元年 |
このころ、久宝寺で大火災があったという。(南町焼) |
1804年 ~ 29年 |
文化元年 ~ 文政十二年 |
このころ、久宝寺住民安田恒庵・鶯関父子、麟角堂を復興したという。 |
1856年 | 安政三年 | 久宝寺住民らが村財政の立直しのため、倹約の申し合わせをする。 |
1859年 | 安政六年 | 久宝寺家数人数調べがあり、家数462軒、人数2108人を数えた。 |
1873年 | 明治六年 | 久宝寺小学校の前身である第百十番小学が創立される。 |
1889年 | 明治二十二年 | 久宝寺村、村政施行 |
1910年 | 明治四十三年 | 国鉄関西本線(JR関西本線)久宝寺停車場設置される。 |
1925年 | 大正十四年 | 大軌鉄道(近鉄大阪線)久宝寺口設置される。 |