久宝寺城址
字(あざ)城土居(しろんど)と呼ぶ所、土居の一部が残っていた。東に“久宝寺城址”の碑がある。畠山満基の拠城と伝え、子満貞始め渋川氏を称したが、その子光重が安井氏と改めた。
安井定重、定正兄弟は織田信長に仕え、大坂石山合戦の際、石山本願寺の兵に攻められて共に戦死し、その末弟清右衛門定次が家をつぎ、久宝寺屋敷135石の請所として一色支配を認められた。
久宝寺西口・東口道標
平野から八尾へ通じる古い八尾街道は、一度久宝寺の町中を通って、八尾へ抜けた。
西口から入ると道はすぐ家に突き当たるが、それを北に折れすぐ一つ目の通りを東へ行く。
この通りを表町通りという。西口から表町通りへのおれ口のところに、文政8年11月建立の道標がある。「左、平野、大坂道」、「右、八尾地蔵、信貴山」とある。表町通りを東に突き当たると、そこでまたすぐ南に折れ、今度は東口を出て、八尾へ向かうことになる。この東口に折れるところにも道標がある。これは天明元年6月の建立で、文面は同じく「左、大坂、平野道」、「右、和州、信貴山、八尾地蔵尊道」となっている。寺内町では道路が突き当たったり、直角に曲がったりするが、これは戦国時代の城下町と共通する特徴である。
麟角堂創建遺址碑
戦国時代久宝寺城主渋川満貞(しぶかわみつさだ)の創建といわれ、堀川屋敷に学者を招き、講筵を設けたことに始まる。天正3年(1575)安井定重(やすいさだしげ)これを復興し、堺の儒学者今村道和(いまむらみちかず)を招いて、孔子像をまつり、漢籍の講義があった。江戸時代には、伊藤仁斎(いとうじんさい)や東涯も招かれて講筵を開いた。大正2年安田覚三郎再び復興し、西村天囚を招いて開講、同11年には私立学舎の許可をうけて、漢学の講義を開いたこともあった。
寺井戸
花崗岩角形の井げたの上部は、甚だしく摩耗している。後側に“天保十四年癸卯閏九月造之”とある。内側はまるい井戸側で、溜井戸である。久宝寺御坊が、顕証寺新田の旧大和川底に元井戸を構え、竹樋を埋めて、ここに引水し、村民の飲用水をまかなった。村では水代として1軒あたり年1升宛の米を御坊に納めた。古くは屋形をくみ、夜には鍵がかけられていた。大正12年簡易水道が設けられるまで、村内唯一の上水であった。
引用:八尾の史跡(新訂版)編集・発行 NPO法人 やお文化協会