久宝寺の地名のはじまり
この地の氏神として古くからある許麻神社の境内に、宮寺として聖徳太子建立の久宝寺観音院(明治初年 神仏分離令により廃寺)があったことが久宝寺の地名の始まりであると伝えられ、河内国渋川郡久宝寺村と言われていました。なお渋川郡一帯は中世では橘島とも呼ばれていました。
久宝寺寺内町の歴史的価値
久宝寺が歴史の表舞台に登場するのは、寺内町としての久宝寺でしょう。室町時代後期に西証寺(後の顕証寺)を中核とする寺内町として作られて470年以上の歴史を持つ町で、現在、当時の町を守るための土居(土塁)濠(堀)は、一部に名残りがあるだけですが、碁盤の目状の道路網などの町割りが残されており、歴史的価値が注目されています。
江戸時代からの古い町家
江戸時代からの古い町家も数多く残っており、寺内町としてのまちなみの歴史的な雰囲気や景観を後世に残すために、八尾市では町家や街路、公園等の保全整備事業、小学校体育館や消防団屯所の修景整備、水路の修復、まちなみセンターの建設等を進めてきました。