久宝寺寺内町について

聖徳太子が創建した「久宝寺」
許麻神社周辺の若江郡巨麻荘には渡来系民族「大狛連(おおこまのむらじ)」が支配する集団が居住していました。また、聖徳太子が創建した「久宝寺」境内の観音院が復興され、後に神社の宮寺となりました。中世には、現寺内町の北西部に「久宝寺城」があり、畠山一族が住んでいました。
久宝寺の地名のはじまり

帰する者市の如し
蓮如上人が布教に訪れた際に、「帰する者市の如し」の例え通り多くの民衆が帰依し、畠山一族と共に明応年間(1492~1501年)に西証寺、後の顕証寺を建立しました。そして、この久宝寺御坊顕証寺を中心に、畿内随一の環濠集落(自衛都市)として久宝寺寺内町が誕生しました。久宝寺寺内町は交通の要所であり、経済的後背地があったため、中・南河内の門徒集団を束ねる拠点として多くの門徒衆が集まり住むと共に、商工業者も集まり活発な商業活動が展開されました。
久宝寺寺内町の歴史的価値

中河内の経済中心地
江戸時代は久宝寺村として幕府の支配を受け、周辺農村の物資の集散地、旧大和川(現在の長瀬川)の船運の要衝地、中河内の経済中心地として栄えました。しかし、慶長17年(1612年)に検地を受け支配権を返上したことにより70余年に及ぶ寺内町としての特権がなくなり、大和川の付け替え等で次第に地域の中心は移っていきました。

現在の久宝寺寺内町
現在の久宝寺寺内町は環濠や土居の一部がその名残をとどめていますが、町割りは、ほぼ昔のまま残っています。また、町家は江戸時代から戦後のものまで様々な時代のものが残っており、それぞれに特徴ある様式を見ることができます。許麻神社の夏祭りには御輿や布団太鼓などが出て盛大に行われます。かつて顕証寺門前から旧近鉄八尾駅まで続く道筋ではお逮夜市が行われていました。近年では幻想的な燈路まつりが毎年開催されています。

土居と濠

土居と濠

布団太鼓

布団太鼓

燈路まつり

燈路まつり