寺内町の歴史

久宝寺の地名のはじまり

この地の氏神として古くからある許麻神社の境内に、宮寺として聖徳太子建立の久宝寺観音院(明治初年廃寺)があったことが久宝寺の地名の始まりであると伝えられ、河内国渋川郡久宝寺村と言われていました。なお渋川郡一帯は中世では橘島とも呼ばれています。

久宝寺寺内町の歴史的価値
久宝寺が歴史の表舞台に登場するのは、寺内町としての久宝寺でしょう。室町時代後期に顕証寺を中核とする寺内町として作られて450年以上の歴史を持つ町で、現在、当時の町を守るための土居(土塁)濠(堀)は、一部に名残りを残しているだけですが、碁盤の目状の道路網などの町割りが残されていて、歴史的価値が注目されています。

江戸時代からの古い町家
江戸時代からの古い町家も数多く残っていて、寺内町としてのまちなみの歴史的な雰囲気や景観を長く残すために、八尾市では町家や街路、公園等の保全整備事業、小学校体育館や消防団屯所の修景整備、水路の修復、まちなみセンターの建設等を進めて来ました。

寺内町とはどんな町か
戦乱に明け暮れていた戦国時代、各地で民衆が自分たちの生活を守り発展させようとする力が盛り上がりました。なかでも、浄土真宗(一向宗)の寺院と信徒(門徒)である民衆が宗教的な意識で一体となって、一向宗徒として勢力を示し、地方の守護大名や領主から独立や特権を認めさせ、信仰と一向一揆の力で自治的なまちづくりがされたのです。

寺院の境内の寺内町
寺院の周囲に町屋が建てられ、町家の外側を濠と土居(土塁)で囲まれ、町全体が広い意味での寺院の境内であるとの考えで寺内町と呼ばれました。
寺内町は一部日蓮宗でも見られますが、一般的には浄土真宗寺院を中核とするもので、浄土真宗の勢力が強い近畿、北陸、東海地方で数多く作られ、20余りが知られています。

寺内町の繁栄
天文7年(1538)、大坂(石山)本願寺は、幕府から諸公事(諸雑税)免許、経済の発展を阻害する徳政令の適用の除外などの特権が認められました。すでに確立していた守護権力が寺内に入れない特権(治外法権的なもの)もあって、寺内一円に対する本願寺の支配権が確立すると同時に、寺内に居住する商工業者の取引の安全を保障する道が開かれて町が発展しました。

各地の寺内町
各地の寺内町は、本願寺を後楯にして、守護大名から本願寺の特権をモデルとした特権を獲得していき、浄土真宗の強力なネットワークが形成され、本願寺がその中心かつ頂点にあったのです。寺内町の成立によって、多くの信徒が集まり住むとともに、特権によって租税が軽い、商いがしやすいとのことで、信徒以外の農民や商人も入り込んで人家が増え、商業活動は活発となり、地域の商品経済を発展させる中心となりました。

久宝寺寺内町の成立
蓮如上人が手がけた久宝寺のまちづくりは、蓮淳に至って完成されました。寺内町の成立は天文10年(1541)12月15日で、天文日記に「久宝寺、西証寺之制札認来候」と書かれていて、その内容は不明ですが、寺内町としての特権を得ています。以後、町は人家も増え経済活動が活発となり、当時の代表的な自治組織として繁栄しました。

八尾街道の主要路
顕証寺が一切の町の支配権を持ちますが、顕証寺の創建に協力し、乱世の中で顕証寺と連携していた土豪・安井氏にその権が委ねられました。久宝寺寺内町は、摂津から天王寺、平野を経て大和へ通る八尾街道の主要路にあり、また、旧大和川河畔に位置し、大坂から南大和へ通ずる水上交通の要衝の地にあったこともあって、中・南河内の真宗信徒集団を束ねる拠点ともなりました。

久宝寺寺内町のまちなみ
戦国期の久宝寺の絵図は現存していませんが、寛永年間(1624~44)に描かれたと言われている久宝寺屋敷方堀藪絵図によりますと、 顕証寺の西・北・東に拡がる信徒の屋敷すべてを含めた地域の周囲に、大和川の水を引いた二重の濠をめぐらし、濠と濠との間に土居(土塁)をつらね、町の入口は、東に東口と今口、西には古口と西口、北には北口、南には南口の六ヶ所で、それぞれ木戸門と番所が設けられています。

碁盤の目のような街路
享保8年(1723)の寺内絵図(木村家蔵)では、濠の内側に、北から南へ大手町・米屋町・馬追町・表町・中之町の五町があり、大手町から南へ直進する広小路のほか、碁盤の目のように街路が通じていて、入口を入った所がT字路となっています。二つの絵図と現在の地図を比較しますと、道路網は大きな変化はなく、いくつかの濠の名残りがあり、今も寺内町としての景観が残されていることがわかります。

久宝寺寺内町を守った土居と濠
享保10年(1725)、顕証寺は南側に拡張されました。現在ただ一ヶ所、顕証寺南辺に残る土居跡は、この時の工事で新しくつくられたもので、久宝寺の貴重な歴史的遺産です。濠は、久宝寺小学校の西裏地にその名残りがみられます。zinaicho-5

石山合戦と久宝寺寺内町
久宝寺寺内町の場合、顕証寺が一家衆寺院であることから、顕如上人と共に和睦に同意しました。しかし教如上人の懇請により、蓮如上人時代よりの世話寺である慈願寺が中心になって信長と戦うためにひそかに信徒を派遣しています。

久宝寺寺内町の分裂
慶長7年(1602)本願寺は東西二派に分かれ、顕証寺は西派に属しましたが、同11年には、久宝寺寺内町も分裂しまた。久宝寺寺内の森本七郎兵衛ら17人が安井氏に反発し彼らを支援した慈願寺とともに久宝寺を離れ、大和川(現長瀬川)の対岸に移り、八尾寺内町をつくることとなりました。
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久宝寺寺内町の終焉
石山合戦で、大坂をはじめいくつかの寺内町は焼失し消滅しました。焼失を免れた所もその後の大名による検地で、寺内町として認められていた特権がなくなり、農村部に成立した商工業集落と言われる在郷の町に変容していきまた。

久宝寺寺内町の支配権を返上
久宝寺寺内町は慶長17年(1612)検地を受け支配権を返上し、寺内町としての特権をなくしました。一般的に、寺内町が存在していた期間は100年余に過ぎなかったと言われていますが、久宝寺の場合は70年余でした。

近世の久宝寺
久宝寺は旧大和川や八尾街道の傍にあったことから、水陸の交通の要衡として栄え、また久宝寺木綿の生産地として木綿商人が活躍する農村部における商業地でもありました。とくに宝永元年(1704)の大和川付替えによって新しく開発され顕証寺新田、三津新田では綿つくりやその肥料となる菜種つくりが盛んになりました。旧大和川である久宝寺川(長瀬川)の常水が減少し、船の運行に支障を来たすことが多くなり、次第に商業活動は下降して地域の中心は八尾に移っていきました。

久宝寺寺内町略年表
西暦 和暦 できごと
1206年 建永元年 鎌倉時代のはじめに久宝寺という寺があったことが確認できる。
1407年 応永十四年 室町時代前期には、久宝寺に道場(慈願寺)があったことが確認できる。
1458年 長禄二年 本願寺宗主蓮如が慈願寺法円に十字名号を修復し、これを与える。
1470年 文明二年 本願寺宗主蓮如が久宝寺で布教したと伝える。

このころ、蓮如が久宝寺に西証寺(のちの顕証寺)を建てる。
1532年 天文元年 畿内各地で室町幕府と本願寺・一向一揆が戦う。
~35年 ~四年
1545年 天文十四年 西証寺が再建される。これ以前、大津近松山顕証寺の蓮淳が西証寺住職となり、寺号を顕証寺と改められる。
1550年 天文十九年 蓮淳、久宝寺で亡くなる。
1570年 元亀元年 本願寺宗主顕如、織田信長を討つため挙兵する。

河内の真宗道場が悉く根来寺衆によって破却されるという。
1571年 元亀二年 河内国の平野部の村々が焼き討ちされるという。武家方、久宝寺地下道場に禁制を与える。

同じころ、織田信長、近江国に入り、延暦寺を焼き討ちする。
1574年 天正二年 本願寺宗主顕如、再び織田信長を討つため挙兵する。河内の三好康長・遊佐信教がこれに応じる。

一向一揆方の萱振城が落ちる。
1580年 天正八年 本願寺宗主顕如と織田信長が和睦し、顕如は大坂石山本願寺を退場する。息子教如は徹底抗戦を主張し、大坂石山に籠城。
1581年 天正九年 安井清右衛門定次が織田信長から久宝寺屋敷地一色支配を認められる。
1594年 文禄三年 このころ、久宝寺で太閤検地が行われる。
1606年 慶長十一年 久宝寺百姓森本七郎兵衛らが、安井氏の非法を訴える。
1608年 慶長十三年 このころ、慈願寺、八尾に移る。
1612年 慶長十七年 片桐且元により久宝寺で検地が行われる。
1615年 慶長二十年 大坂夏の陣で久宝寺も戦場となる。
1638年 寛永十五年 この年、松江重頼編の「毛吹草」が出版され、久宝寺木綿が紹介される。
1639年 寛永十六年 安井一族の間で久宝寺屋敷について相論が起こる。
1677年 延宝五年 久宝寺で検地が行われる。
1689年 元禄二年 安井氏と顕証寺で年貢のことで相論する。このころ「久宝寺屋敷惣絵図」(高田家蔵)が作られる。
1704年 宝永元年 大和川の付替え。
1707年 宝永四年 宝永大地震が起こる。市内の寺院も多大な被害を受ける。
1716年 享保元年 顕証寺が再建される。
1721年 享保六年 顕証寺新田が造られる。このころ、顕証寺、寺地を南側の出屋敷の一部まで広げる。
1723年 享保八年 「新検分間正絵図」が作られる。(木村家蔵)
1755年 宝暦五年 木綿仲買仲間の久宝寺組・八尾組・山根き組が木綿取引について取決めをする。
1764年 宝暦十四年 久宝寺住民ら、安井一族から久宝寺屋敷地を買い取る。
1789年 寛政元年 このころ、久宝寺で大火災があったという。(南町焼)
~01年 ~享和元年
1804年 文化元年 このころ、久宝寺住民安田恒庵・鶯関父子、麟角堂を復興したという。
~29年 ~文政十二年
1856年 安政三年 久宝寺住民らが村財政の立直しのため、倹約の申し合わせをする。
1859年 安政六年 久宝寺家数人数調べがあり、家数462軒、人数2108人を数えた。
1873年 明治六年 久宝寺小学校の前身である第百十番小学が創立される。
1889年 明治二十二年 久宝寺村、村政施行。
1910年 明治四十三年 国鉄関西本線(JR関西本線)久宝寺停車場設置される。
1925年 大正十四年 大軌鉄道(近鉄大阪線)久宝寺口設置される。