石山合戦と久宝寺寺内町

石山合戦と久宝寺寺内町
久宝寺寺内町の場合、顕証寺が一向宗寺院であることから、顕如上人と共に和睦に同意しました。しかし教如上人の懇請により、蓮如上人時代よりの世話寺である慈願寺が中心になって信長と戦うためにひそかに信徒を派遣しています。

久宝寺寺内町の分裂
慶長7年(1602)本願寺は東西二派に分かれ、顕証寺は西派に属しましたが、同11年(1606)には、久宝寺寺内町も分裂しました。久宝寺寺内の森本七郎兵衛ら17人が安井氏に反発し、彼らを支援した慈願寺とともに久宝寺を離れ、大和川(現長瀬川)の対岸に移り、八尾寺内町をつくることとなりました。