久宝寺寺内町のまちなみ

久宝寺寺内町のまちなみ
戦国期の久宝寺の絵図は現存していませんが、寛永年間(1624~44)に描かれたと言われている『久宝寺屋敷方堀藪絵図』によると、 顕証寺の西・北・東に拡がる信徒の屋敷すべてを含めた地域の周囲に、大和川の水を引いた二重の濠(堀)をめぐらし、濠と濠との間に土居(土塁)をつらね、町の入口は、東に東口と今口、西には古口と西口、北には北口、南には南口の六ヶ所で、それぞれ木戸門と番所が設けられていました。

碁盤の目のような街路
享保8年(1723)の寺内絵図(木村家蔵)では、濠の内側に、北から南へ大手町・米屋町・馬追町・表町・中之町の五町があり、大手町から南へ直進する広小路のほか、碁盤の目のように街路が通じており、入口を入った所がT字路となっています。二つの絵図と現在の地図を比較すると、道路網に大きな変化はなく、いくつかの濠の名残りがあり、今も寺内町としての景観が残されていることがわかります。